旅ずきの私は、高校時代から、夏休みの度に、必ず遠い所へ旅行する。バスでも汽車でも飛行機でもしたことがある。けれども、汽車のほうが一番好きなのだ。なぜかというと、四つの理由がある。
 まず、軌道がいつも町を避けて田舎や郊外を通って静かだし、悪い匂いもないし、視野も広がっている。それに反対して、バスでしたら、いつも賑やかな町を通って、外にも内にも人が大勢でうるさい。それはともかく、バスがガソリンの匂いが強くて酔いやすいので、目的地に着かないうちにもう旅心地が失ってしまうのだ。飛行機でしたら、快適なことは快適だけど、何時間もかかってすぐ着くというのは、途中の面白さがなくなって、旅の趣味も半分失ってしまうんじゃないか。
日产それから、それぞれ違う風景を見ていると、いろいろと思い出されている。福建省はカルスト地帯が多いから、鉄道はちょっと無理なのだ。泉州から武夷山までトンネルが50本以上もある。北の方へ行くほど行けば、トンネルが多くなる。軌道の両側に植えている茶畑もよく見える。特にお茶が有名である安渓県の茶畑が一番多いのだ。
  ところが、私が忘れられないのは、やはり山地の庶民のことだった。皆さんがご存じのように福建省が経済大省と言われている。実は発展するのはびん南にすぎない。ほかの地方は、それほど発展はしていない。特に西と北の地方はやはり貧乏である。そんなにぼろぼろな家に住んでいる農民たち、そんなに古い農具で耕している農民たち、そんなに貧しくても、水牛を駆けたり歌を歌ったりしていて、楽しい顔つきをしている農民たちを見ていると、何だか五味瓶を壊したように胸が詰まった。車窓から眺めると、片側、森が茂って鳥が鳴っていて、反対側、川は漣が光って蛇行している。本当に美しい景だけど、何だか切なくなって目の前の風景も変わってきた。鳥さえ悲しく鳴っているようだった。汽車がすぐ走っていった。私は楽しみにしていた旅も続いていた。農民たちは相変わらずいつものように暮れきるまで働いている。これは一体どういうことだろうか。
それから高校二年生のとき、 北京行きの汽車に乗って、建物や作物などの南北の差が気付いた。そして、沿道の果てしない野原に心を打たれた。海の青を見慣れた私は、そんなに広い緑を見て、本当に驚いた。 青と緑はあまり違いがなくても、海も野原よりずっと広くても、野原に感動された。海の青はただ自然のものだろうが、野原の緑は人工の作品なのだ。苦労をかけて、心を込めて耕しているのは農民でなくて誰でしょうか。本当にすばら
しいと思った。
第三に、いろいろな人に出会うことも面白いと思う。何日間もずっと汽車にいる人々を観察していると、初めは楽しむ、途中はあきあきする、それからはいらいらになる、最後また興奮になるなどということがよくわかる。専用車でなければ、一つ一つの箱はまるで一つ一つの社会の縮図のようだ。各階層の人が集まって、さまざまな生活様式が見える。専用車であれば、たとえばキャンプでどこかへ行く時、いくつかの箱も全部メンバーである場合(?)、移動キャンプになる。それも面白いんじゃないか
もう一つ、これはただ自分の考えだけだ。私の人生は軌道といったら、私がその上を走っている特急列車になると思う。軌道がずっと前へ伸びていって、両側にどんなに美しい景があっても、私の列車が目的地に着かなければ、止めることなく、ずっと前に進もうと思っている。目的地がどこかまたはっきりしない。ただ、きっと前にあって、私を待っていると信じていて、頑張っている勇気を出すわけだ。今では、もっとスピードを上げることしかないのだろう。
以上の四点が原因で、汽車旅が何よりだと思っている。汽車に乗っていたら、心も旅行に
出て行くんじゃないか。だから、余裕があれば、調子がよければ、汽車で旅行しよう。